ざっくりまとめると
- 江戸時代に湿地帯だった荒地に用水路を引いて、割野の人たちが耕作地を拡張していきました。その水路に沿うように集落が形成されていきました。
- その集落は割野の人たちにとって、鳥屋野潟や沼垂に行く時に早く通れる道であったことから「早通」と呼ばれるようになりました。
- 1968年に親松排水機場が作られて水はけが改善し、昭和50年頃までに堀や潟は埋め立てられて現在のようになっています。
無数の湖沼と河川の湿地帯
日本一長い信濃川と日本一広い阿賀野川、それを結ぶ小阿賀野川。大河に囲まれた湿地帯の「亀田郷」に早通は生まれたんじゃよ。
学校で少し習ったよ!僕は湿地帯と聞くと、なんかワクワクするんだよね。キラキラした水辺がたくさんあって、色んな生き物で溢れてるイメージ。
そうじゃな。それは美しい光景じゃった。太陽の光は湖面できらめき、水辺は大空を鏡のように映し出す。雷魚やヘラブナが跳ねる水音と野鳥のなき声が響くんじゃ。ススキの穂が風に踊り、夜は蛍が幻想的に光る。まさに自然の宝庫じゃった。
想像するだけでも、心がワクワクするわ。でも海抜0メートル地帯で、洪水も頻繁に起きたって聞いたことがあるけど‥
その通りじゃ。ひとたび大雨が降れば河川が氾濫する、そんな土地じゃったから、開発が一番遅れた地域なんじゃな。
本当だね。そんな厳しい湿地帯にどうやって早通集落ができていったんだろう。
江戸時代に新田開発がはじまる
早通の始まりは今から約400年前のことなんじゃ。新田開発というのは、用水や干拓工事で、原野や潟湖などに新たに耕地を開拓することじゃ。特に江戸時代は、諸藩の年貢増収策として盛んに行なわれていたんじゃよ。
これから割野地区に新しく田畑の造成にとりかかります。
3年間は年貢免除するから、みんな移住して協力しあって開拓してね!
新しく田んぼを耕して、一人前の百姓になるんだ。
言い伝えによると、まずは仁左衛門という人が移住してきて水路を作ったそうな。すると周りの人たちも次々と集まってきて開墾を始めたそうじゃ。
作物を育てるには、水が必要じゃな。農民は焼橋という割野の集落から用水路を掘って延長していき、それに沿うようにして早通の集落が作られていったんじゃよ。
1575年(天正3年)に早通村が開村し、さっき出てきた仁左衛門さんが最初の庄屋(初代佐々木家)になったんじゃ。その後、1707年に一度、上早通りと下早通りの2つの村に分かれ、その後明治45年に合併したということなんじゃ。
古地図を見てみよう
見ての通り江戸時代の中頃までは阿賀野川と信濃川の河口は1つに繋がっていたんじゃ。水捌けを良くするために、新発田藩が享保15(1730)年に阿賀野川を直接日本海へ流す大工事を行うんじゃ。
では新田開発が始まってから200年ほど経過した頃の水路の地図を見てみようかの。阿賀野川は直接日本海へつながっておるじゃろう。少しずつ少しずつ、水捌けが改良していったんじゃよ。
本当だ!砂丘を貫通して阿賀野川を海まで繋いだんだね。江戸時代の人は機械もないのにすごい労力だね。
それでもまだまだ排水は不十分で、一度大雨が降るとあちこちに湖ができたんじゃ。亀田郷には「地図にない湖」があると言われたりしたんじゃよ。
実際の堀の様子
今ある道には堀が流れていて、それぞれの潟とも接続されていたんじゃ。川は生活用水としてだけでなく、交通の役割も果たしていたんじゃ。家の前の川から田舟で鳥屋野潟や沼垂まで行くことができたんじゃよ。
本当だ。水路が村の中を流れていたんだね。ザリガニやタニシがたくさんいたみたいだね。
見ての通り、橋の下を舟が通行できるように、橋は少し高めに作られているんじゃよ。
私のおばあちゃんは、この川で洗濯もしていたって。あと夜は街灯がないから、川に何度か落ちたことがあると言ってたよ。
これは明治時代の上中早通の古地図じゃ。中央のT字路を挟んで右が上早、左が中早じゃな。拡大すると赤い通路の中に水路が見えるじゃろう。その水路の所々に橋も記してあるのが見えるぞ。
そういえば、この川沿いの集落はどうして早通って呼ばれるようになったの?
早通の名前の由来
ふむ。早通の名前の由来は、その漢字のまんま、早く通れる「近道
」という意味じゃ。
早通は元々は「割野新田」という名前で呼ばれておったんじゃよ。割野の人たちにとって鳥屋野潟や沼垂に行くときに、早通集落を通ると早く行けることから、いつの頃からか早通と呼ばれるようになったんじゃ。
なるほど〜。それで川上を上早、川下を下早と分けていったんだね。あと豊栄にも早通っていう地名があるけど、何か関係があるの?
特に関係はないんじゃ。早通という名前はよくあるパターンなんじゃよ。ちなみに西蒲区にも早通川があったんじゃよ。
堤防が決壊して水浸しに
この亀田郷は排水機能がない時は、5年に一度は水害が起きていたそうなんじゃよ。特に大正時代には2度も堤防が決壊して、早通村も水浸しになったんじゃよ。大正2年の木津切れ、6年の曽川切れが有名じゃな。
これは曽川切れの時の上早の宗通寺の鐘撞に避難した時のものだわ。そういえば、私の家に蔵があるんだけど、柱の1つに当時の水位を記した線が引いてあるんだよ。
茄子や豆など野菜はどれも腐って食べられない状態で、胡瓜や南瓜などのつる植物も全部枯れてしまった。もちろん稲も全滅してしまい、その結果米の価格が高騰している。
家の中ではタンスなどの家具も流されてしまい、鍋や釜などの道具も全て水中に沈んでしまった。夜着や布団も臭くなってしまい、井戸も崩れて飲み水が不足してしまったんじゃ。
排水機場の充実
堀と潟の埋め立て
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